バンドコラムにソロラッパーが寄稿するという微妙に奇妙な状況に戸惑いこそあれ、せっかく頂いたこの機会をさてどう活かそうかというところなのだが、ラッパーはラッパーらしい事でも書いてみようじゃないかと言う事でしばしお付き合い頂ければ幸いだ。
一昔前に比べてラップが大衆化したのは日の目を見るより明らかであり、なおかつ「ラップとは韻を踏むこと」という定義さえも半ば定着しつつあるように思う。
ズブのど素人でも、それとなく語尾の母音を揃えてリズミカルに喋ればなんとなくラップっぽく聴こえるので、やはり韻というメカニズムがラップをラップ足らしめるのに重要なファクターであると言っても過言ではないのではないだろうか。
特に僕のような30代半ばの世代は、さんピン後の日本語ラップで育った世代である。
日本語における押韻の礎を築いたキングギドラの再結成や、ラッパ我リヤ率いる走馬党、メジャーシーンでもブレないライムスキルを貫いたキックザカンクルーなどの影響で「押韻原理主義」的な育ちをしたラッパーも少なくないように思う。
さらに僕らの世代では、ネット掲示板の文字上で、韻を重点に置いた文章遊び「ネットライム」という文化もあったりした。
僕はそれらの影響をゴリゴリに受けているので、自分の作品制作でも念頭に置くのは「長くて硬い韻をどれだけ用意できるか」である。
とは言うものの、短く細かい韻を小節内に散りばめるなどの小技も好きである。
本題に入ろう。
ラップと韻は切っても切れない関係なのは周知の事実だが、では何故、ラップに置いて韻が重要になってくるのだろうか。
世の中にはポエトリーラップというサブジャンルもあるように、韻を踏まないラップもある。
さらに言うと、ポエトリーリーディングはそのまま「詩の朗読」である。
では、バックビートを用いたポエトリーリーディングは、ラップか否か。
アカペラのポエトリーラップは、それこそポエトリーリーディングではないのか。
アカペラのラップでグルーヴが生まれるのはどうしてなのか。
その答えこそ、韻なのだ。
僕はそう解釈している。
リズムを伴う文学で言えば、日本の俳句や短歌がある。
これは、文字数の制限と反復によって言葉にリズムを与える手法である。
考え方によっては、マーチングのスネアロールに近いのかもしれない。
では、押韻という技法とは。
母音を揃えて定間隔に配置する事で、言葉の音そのものでリズムを作る技法である。
スネアだけではなく、バス、タムタム、ハイハット、ライド、クラッシュ…「あいうえお」の音でドラムソロを奏でるようなものだ。
しかもラップとは、突き詰めれば「ボーカルテクニックの一種」なのだ。
同じ言葉や単語でも、発音や、間の取り方で「音」を歪めたり、ねじ曲げたりもできる。
こんなに柔軟な打楽器を、僕は他に知らない。
しかも、その音とは他ならぬ「言葉」、言語なのだ。
それそのものに意味を持たせることができる。
情報を間引いてリスナーが入り込める情感の余地を用意することもできる。
メロディーという制約に縛られない分、ラップとは基本的に情報を過積載できる。
圧倒的に自由な表現方法だが、それを音楽足らしめるには「押韻」という技術が重要になってくる。
しかしこいつがいるからこそ、なかなかペンは自由に進んでくれない。
圧倒的に不自由な作詞方法である。
だからこそ、肺を経由し声帯から放たれた音としてのラップは、あれほどまでに躍動するのだろう。
少しばかり理屈っぽくなるが、そんな観点からラップを聴いてみると、聴こえ方が違ってくるかもしれない、というお話。
■BAND: —
■PART: RAPPER
■NAME: GAKUDAN_H1TOR1 / 楽団ひとり
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